「文学史を読みかえる」研究会

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書評 高橋新吉『ダダイストの睡眠』(松田正貴・編、共和国、二〇一七年)

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読みかえ研会員の本の紹介です。この書評は文学史を読みかえる・論集』第3号に収録されたものですが、ブログの仕様上、傍点など一部表記が反映できませんでした。興味のある方はぜひ『論集』第3号を、そして『ダダイストの睡眠』(共和国)を手に取ってみてください!

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書評 高橋新吉ダダイストの睡眠』(松田正貴・編、共和国、二〇一七年)

 

五億年先の遠い未来が、あなたの今日の動機であれ

 藤野良樹

 

 高橋新吉は日本で最初のダダイストとして誉れ高い。本書『ダダイストの睡眠』は「発狂詩人」高橋新吉の短篇小説を中心に纏められている。ここに収められた作品のほとんどは、関東大震災の後に発表され、大東亜戦争の前に出版されたものである。だが、年代順に並んでいるわけではない。短篇十二篇と詩作二篇、新吉についての新聞記事と略年譜、そして編者による三つの解説がモンタージュされる。本書の特徴はここにある。これにより読者は高橋新吉という「不気味な運動」のなかに投げ込まれる。そこで私たちはこの本に主体的に参加し、読み解かねばならなくなるのだ。ひとりの文学者の表現に本の構成自体で接近しようとする得がたい書物なのである。

 とはいえ、この謎めいた詩人の小説を何の案内もなしに読み進めていくことは些か困難に思われる。だが、恐れることはない。編者・松田正貴の周到かつ充実した解説文は、作家の足跡や時代状況を理解するにあたり読者にとって最良の導きとなるだろう。

 松田は新吉が終生抱きつづけた独特の言語観に着目することで、作家の核心と全体像を把握する。作品のなかに繰り返し描かれる作者の「言語に対する不信感」を読み取るのである。この観点から、ダダ、狂気、禅など新吉に纏わるすべて主題は捉えなおされる。すると、ダダは既存の「意味」を解体させる表現力として、禅は「言葉なき思想」、「何一つ語らない語り」という詩的言語の可能性として見出されることになる。そして、狂気という主題も、あらゆる価値転換の契機として現れる。新吉は、既存のものとは違う新しい言葉を、その語り口こそを求めて、この途方もない試みを実践しつづけたのである。

 言うまでもなく高橋新吉は日本のダダイズムを考えるうえで欠かすことのできない存在ではある。が、ダダイスト新吉というのはこの作家のひとつの側面にすぎない。松田も指摘するように「新吉にはさまざまな「顔」がある」のだから。しかし、「新吉の書く短篇小説は、今も昔も文壇からはほとんど見向きもされ」なかったという。なぜなら、「新吉が戦前に書いた短篇小説のいくつかは、いわゆる文芸誌に発表されたものではなく、『相対』『変態心理』『脳』といった性科学や精神医学の専門誌に投稿されたものだったからである」(「解説」、二三〇頁)。このアンソロジーダダイストの睡眠』は短篇小説に焦点をあてることで、新吉の別の相貌を浮かびあがらせる。小説を読まずしてこの詩人の総体を捉えることはできない。より強くいえば、高橋新吉は小説を起点として再評価されねばならない。本書は、小説から新吉の詩作を読みかえす必要を読者に迫るのだ。

 ここに纏められた小説群では、『ダダイスト新吉の詩』(一九二三年)に見られるようなダダに特有の破壊的な雰囲気や、既成の価値を転覆させようとする野心や悪意は影をひそめている。例えば、カリグラムやオノマトペの多用による視覚的、聴覚的表現はほとんど見当たらない。むしろ、ここで執拗に描かれているのは、不穏なまでの倦怠と虚しさである。

 

   

 私は満二十五と十ヵ月以上も此の世に生きている。此れから五十年以上も此の世に生きていたいのが私の欲望である。

 私はどんな事をして生きようか、私に出来る事は、めしを食う事と本を読む事と歩く事と、それからもう其の外には之と言ってないのである。(「桔梗」)

 

あるいは、

 

 私は三年間を狂人として牢の中に暮らして半年前にやっと檻禁を解かれ た。私は三十年の間を生きては来た。私はこれからまだ生きようとは思っている。めしを食おうとは思っている。だが三十年の過去を顧り返る事に依って、私は何をこの世にモタラスだろう。私は何を考えて、求めて、あえいで生きてきたものやら、全くわからん。(「悲しき習性」)

 

自身の「発狂」体験を題材にしたと思われるこれらの小説作品には、頻繁な人称の転換があり、唐突に逸脱する場面描写があり、脈絡の付け難いイメージの移りかわりがあり、小説とも精神病者の手記ともつかない、奇妙な散文体験に読者を誘う。それらはあえて引用しない。本書を直接あたってほしい。だが、引用した二つの小説のみならず、新吉は他の作品でも、虚しく無力な語り手を据えて筋らしき筋がない断片的な物語を展開するのである。語り手は不気味な状況にさらされて、疲弊し、どうしようもなく衰弱している。さらにいえば、小説のなかで描かれる人物は、狂人や物乞い、精神病者といった周縁を生きる者たちだ。本書に収録されたこれらの小説は戦前のものである。国家の言葉、戦争の言葉が溢れる現実である。まさに「極めて低俗な他人の言葉をホザク」(「悲しき習性」)ような人間が支配的な時代においては、正しいものの圧力によって、その基準から外れるものは正しくないものになり、異端とされ、排除される。いわば「狂気」という屑箱的属性に押し込められるのである。新吉はこのことを敏感に感じ取ったのだろう。だからこそ正統や権威を揺さぶる価値転倒の可能性を「狂気」にこそ見出したのではないか。いずれにせよ、この虚しさと無力さ、そして「狂気」という主題は、新吉自身の「狂気」と、震災を経て戦争へ向かっていく時代に偏在する「狂気」とそこに住まうひとびとの心情と響きあうものがある気がしてならない。

さらに、新吉は小説のなかで次のように語らせる。

 

私は人の使う言葉でもって、こんな事を書いているが、言わば人の拵えた言葉だ。私がこんな事を書くのも私が書くのじゃなくて、誰かが私に書かせているのだとしか思えない。私一個の力でもってやる仕事じゃない。(「悲しき習性」)

 

自らの情動を語る言葉が掴みきれない、言葉でそれを語りきれない苦しみがこの詩人を深く貫いている。自分を語る言葉がない。自分の絶望や不安を書ききる言葉がない。言葉が追いつかない。どれほど書きなおしても。しかし、だからこそ、書き続けなければならないのである。佐々木中も言うように、言語はつねに言語の外を含み、言語の外においてこそ言語として生成する(『夜戦と永遠』)。したがって、「書き表わそうにも到底文字や言葉では書き表わせないところのもの」(「桔梗」)であったとしても、言語で書かれ、語られなければならない。新しい文体、そして新しい言葉というのはそのような過程からしか生成されないのだから。とすれば、新吉はいわば既存の支配言語に抗う詩的言語とでも呼ぶべき書き‐方、語り‐口を意識的に模索していたからこそ、ダダや精神医学の言説を、そして禅を、自らの創作の方法論として取り込んだのだと考えることができる。これらの分野にかんして新吉に特別な知見や意匠があったとは思わない。おそらくそれは、直感的に選び取り、好き勝手に吸収し、独自に活用したのである。感情や感性を重視する性格は、小説のなかからも読み取れる。本書に収録された、転向を主題とする短篇小説「ヴィニイ」にはこうある。

 

Mは二十七歳である。彼はマルキシズムの正しさを理解したと同じ頭脳の明澄さで、今度は党の誤謬を説くのだ。然しながら鈴木は、Mが最初マルキシズムに走ったのも、Mの感情的なものが目立っていたと思うのであるがMが転向したのも感情が先で、理論は後から拵えたもののような気がするのであった。だからMは偽りではなく本当に転向しているのだ。人間は決して理論で動くものでなく感情の方が本質的であると思っている鈴木には、Mの口から洩れる言葉の響きや調子でその事がわかるのであった。(「ヴィニイ」)

 

人間は決して理論で動くものでなく感情の方が本質である――。おそらくこれが、高橋新吉のもっとも根元的な原則であり、確信なのだ。もちろんそれは、常に無謬であり続けるわけでは決してない。あるわけがない。松田の解説によれば、新吉は戦中、戦意高揚のための詩を書いてしまったという。「ダダと狂気をめぐる自らの言動が、きわめて自然な形で戦時下の戦意高揚詩へ流れ込んだ」(「解説」、二四七頁)。

 文学者の自己表現が、時代の「マクロな狂気」に飲み込まれてしまうメカニズムとその分析は、高橋新吉を再検討するうえで必ず問われねばならない問題だろう。ここでひとつ疑念が湧く。「誰かが私に書かせている」(「悲しき習性」)と言うが、はたして、新吉は自分以外の言葉を聴き取るために真剣に耳を澄ましたことがあるのだろうか。これは新吉だけの問題ではない。同時代のダダイストアナキストのほとんども同じ躓きを免れえなかったのだ。その源泉として遡ることができるだろう――大杉栄などのアナキスト、そして辻潤高橋新吉たちが多大な影響を受けたとされる――マックス・シュティルナーの「唯一者」の思想も、私にはひどく退屈なものに感じられる。誤解を恐れずに単純化して言えば、結局それは、「俺が一番偉い」と誇示するものでしかない。当時の日本の社会思想や前衛表現の根底には独我論的で実存主義的なものが拭いがたく存在している。なんとも男くさく、息苦しいものが。無論これは、「個」を抹殺していく時代状況への危機意識のなかから掴み出された思想であって、その切実さは疑うべくもない。だが、それは、万能の自己という自閉した幼稚な幻想に帰着する。結果、彼らは自己批判とそこから生まれるはずの絶え間ない自己変革の契機を失うことになったのである。誰とも取り替えのきかない「個」を絶対化することでは、かけがいのない他者への視座を得ることができないのだ。ここにこそ「マクロな狂気」が忍びこむのではないか。

 しかし、それでも。新吉の表現に「マクロな狂気」に飲み込まれていく側面があるとしたら、同時に「マクロな狂気」を穿つ側面も潜在しているはずである。なぜなら――

 

常に新たなる出発が為されなければならぬ。為されなければならぬと言うよりも、それは為されているのだ。凡てが固定してはいない。(「ヴィニイ」)

 

新吉は確かに過った。しかし、彼の詩的言語の実践は、固定された言語と均質化された語り口の拒絶であり、不変なるものに対して抗うものでもあったのだ。そう、すべては固定してはいない。だから、何度でも語りなおされ、書き続けられなければならない。この過程に終わりはない。それは強靭に反復され、変相され、創造されなければならないのだ。そしてそれは、どこかニーチェを思わせはしないか。ニーチェこそ、ヘーゲル主義的な終焉を拒絶する闘争の哲学者であり「発狂」の詩人ではなかったか。この点においてのみ、新吉の表現は、万人のための、そして誰のためでもない(『ツァラトゥストラかく語りき』)ものとして、われわれの前に立ちあらわれてくる。「凡てのものは穿き替えられ得る。変化は価値だ。価値はダダイストだ」(「ダガハジ断言 Is Dadaist」)。

 短篇「悲しき習性」では、この頃は何を書いているのだ、と問われ、「私は何も書けない」と答える場面が描かれる。だが、新吉は書き続けた。この孤独な魂は沈黙することはない。たとえ誰かの言葉であったとしても、自分自身に言葉を与え、それを読む者にまた別の言葉を与えるのだ。そうだ、中原中也が新吉に心酔した理由も、そこにかかっていたにちがいない。「恐らく深夜下宿の孤独における叫喚を、片仮名とアフォリズムの形で、紙上に放出したものを詩と称することだけが、新吉から学んだものであろう」(大岡昇平中原中也』)。新吉の言葉は中也を詩人に変えたのである。ある現代の詩人は「言葉を受け取ったあなたを詩人にするような言葉が詩である」(佐藤雄一)と詩を再定義している。その言葉に倣っていうならば、新吉は「あなたを詩人にする」詩人なのである。

 高橋新吉には、松田も本書解説の末尾で引用している「るす」という印象的な詩がある。「留守と言え/ここには誰も居らぬと言え/五億年経ったら帰ってくる」(「るす」)。この不穏な詩人の言葉を、われわれはどのように受けとめればいいのだろうか。さしあたり、私たちは次のように応えよう――「もっとも遠い未来こそが、君の今日の動機であれ」(『ツァラトゥストラかく語りき』)。五億年も待ち続けることが私たちの仕事ではない。人類が文字を発明してからたった五千年しか経っていないのだ。すべては固定してはいないのであり、常に新たなる出発が為されなければならないのであり、それはすでに為されているのである。今も。これからも。いかなる時も。だから、本を取り、読み、また筆を執るのだ。世界を変革するために。誰かと共に。高橋新吉の言葉は、いまだに私たちを触発する。

 

(二〇一七年八月、共和国、二六〇〇円+税)

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