「文学史を読みかえる」研究会

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書評 『横光利一とその時代―モダニズム・メディア・戦争』(黒田大河・著、二〇一七年、和泉書院)

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引き続き、読みかえ研会員の本の紹介を。黒田大河さん初の単著『横光利一とその時代―モダニズム・メディア・戦争』(和泉書院)についての、田村都さんによる渾身の書評をここに掲載いたします。横光文学に粘り強く取り組んでこられた黒田さんの著作に対する、力のこもった批評となっています。田村さんの書評をお読みになった方は、ぜひ『横光利一とその時代』を手に取って読んでみてください。

この書評は文学史を読みかえる・論集』第3号に収録されたものですが、表題と本文の一部に変更・修正がほどこされています。

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この国の“虚無”にする供物のために  田村 都

書評 『横光利一とその時代―モダニズム・メディア・戦争』(黒田大河著)

 

 

 1993年から2012年までに発表された第1章から第14章までの各論に、2017年刊行当時の書き下ろしの序論を付して一書にまとめられた本作は、著者の、単著としては初めての一冊である。当然その主題は、著者が研究者としての道を志すに至った原点でありライフワークでもある横光利一の、字面を追う限りでは、『旅愁』(1937~46)の「読みかえ」の可能性の追求であるが、そうした企ての背景にあるのは、初期の新感覚派時代を経て、『上海』(1929~33)、「機械」(1930)という20世紀前半の日本文学を代表する小説を書き上げた作家が何故、その後半生を費やして『旅愁』のような(評者である私に言わせれば悲惨な)作品に行き着くことになったのか、というモチーフの存在と思われる。著者の歩んだ横光研究の道程が、時系列上は『歐州紀行』(1936~37)から始まって『旅愁』に至っている――ただそれだけの理由で、そう述べるのではない。数多ある横光作品から著者が本書で取り上げたのは――上述以外には、初期の「ナポレオンと田虫」(1926)から、1936年の欧州体験を契機として以後断続的に書き継がれた私小説風の諸短篇(横光を彷彿させる登場人物の名をとって「梶もの」と総称される)。および、「純粋小説論」(1935)に代表される、ポレミックな、というよりも、威勢はいいし着眼点も鋭いが論理的飛躍が多い、いわゆる「桂馬筋」と評される作家の思索を伝えるエッセイや座談会での発言。こうした多岐にわたるテクスト群を横断しながら、それらに共通して著者が眼を注ぐのは、主に次の3点である。

(1)<視覚優位>という、横光の文体に際立つ要素への着目。そこから浮かび上がるのは、それが彼の小説に限らず、彼の思考/嗜好の基調を成しているということである。そして、横光が、あたかも身をよじるようにして託宣を伝える神官のように、技巧の限りを尽くして描写する<現実>のさまざまな対象は、結果として、彼にとってつねに<相対化>された価値しか付与されない。

(2)このことは、その価値に信を置くそれぞれの主体が互いに相手に対して不信を抱き、そして、刀を返すように、自己自身に懐疑の切先を向ける、横光作品に特徴的な登場人物の心理の褶曲を説明する。と同時に、言語を介した自他のディスコミュニケーション状況それ自体が、彼の表現上の主題として前景化する。

(3)にもかかわらず、この現実世界の断絶を露わにしてやまない<相対化>の視線は、彼の共感に裏打ちされた相互理解による和解への憧憬――すなわち「『共同の一線』の発見」というモチーフに支えられている。このモチーフの痛切さのゆえに、イロニーという名の自己慰撫に陥ることから横光を厳しく遮断している。

このうち(1)については「映画的認識」という同時代の文化思潮に共通するモードを、いくつかの事例を挙げながら根拠づけるとともに、それが横光作品を読み解く上でのキーワードとして著者の論の全体を規定している。次に(2)では横光の、単に作家の生理的・性格的な水準では解消しきれない、「文学」という表現行為それ自体に関わる次元で読み解くべき一箇の主題であることが、いくつかの小説作品の場面を引きながら明示される。さらにその背後に隠顕する(3)のモチーフが『旅愁』において前景化されていったことが同著の執筆過程に即しながら指摘される。ここから(2)の、現実社会における他者とのコミュニケーション不全という現実認識と、にもかかわらず(3)における相互理解が可能な、理想としての人間関係の希求に引き裂かれた横光の、矛盾と自家撞着があからさまに露呈しているがゆえに、結果として、あるいは逆説的に、『旅愁』という作品を、「脱構築」的に読解しうるテクストとして救済する、という著者の企ての、その可能性の余地が生ずる。すなわち、横光の、価値相対化の視線があってはじめて可視化され、可視化されることではじめて相対化された価値が認められるという認識の二重構造と、関係性との断絶という、いまこの時代における固有の問題のフレームワークを構成するとされる諸要素――たとえば「他者」や「国家」や「言語」といった個のアイデンティティに絡んで付与される指標や価値判断――の無根拠性を、積極的に主題化し、「読みかえる」という企ての。

 

 もっとも、こうした捉え方は一面的に過ぎるかもしれない。事実、本書の後半の大部を占める第3部――声と文字の相補的関係と、その増幅装置としての役割を果たしたメディアの功罪を論じた第11章・第12章は、先行研究を踏まえつつ、前述の著者のモチーフを通奏低音として展開させることで学術論文としての完成度を高めた本書の白眉ともいうべき箇所である。ここでの著者は、実際に横光が生きた時代のメディア環境を史実に即して押さえながら、論の射程を拡げることで初めて見えてくる横光の作家的特性を視野に収めたという点で、良くも悪くも時代のジャーナリズムの寵児として振る舞うことを強いられた、(現在の視点からは見えにくい)横光の作家活動の一側面を浮き彫りにする。当たり前のことだが、文筆をなりわいとする人もまた、その実生活上の、山もあれば谷もあり、酸いも甘いも嚙み分ける必要があるのだ。このときに見せる著者の手さばきは、一流の料理人がふるう無駄のない刃物の動きのように見事というほかない。だがしかし、調理という行為が特定の職業に特権化されるものではなく、人が生きるうえで必須の営みであるように、文学という表現行為が、その行為がなされた瞬間においても、そして、その行為の結果が過去として、あとから「評価」する時代にあっても、それぞれの、〈いま―ここ〉における人間の生の「本質」と関わるがゆえにいまなお「学」として論ずるに値するとするならば、ここでの横光論は、その時代ではなく、この時代におけるアクチュアリティのある作家として横光を読む、という本書の野心的な意図とは、いささかすれ違っているように思われる。メディア環境や機器の技術進展上の、現在との相違といった表面的なレベルを度外視しても、である。論が横光の生きた時代という風景で描線が完結しすぎているのだ。では、著者の視線が捉えた横光文学という高峰は、従来と異なるパースペクティヴのもと、いかなる稜線を描くのか?

 

眼――それは小林秀雄の思わせぶりな批評が世に出されて以降、横光の、とりわけその初期作品を論じる際に多くの論者から、意識的にせよ無意識であるにせよ、取り扱われるキータームである。これを、本書において著者は、それを横光の作家としての経歴を追う過程において一貫して通底する「視線」の問題として敷衍する。だからたとえば、ロジックというよりはレトリックにすぎない小林の「玻璃の眼」や「膠質」を過剰に読み込むことから成立する著者の論理――第1章における、フィルムを通過することで世界を現像させる「光源」と「観客の視線」というダブル・イメージによるテクスト生成論は、スタティックな認識論では捉えられない横光のテクストが孕む運動性を照らし出すための著者の視角を明らかにするとともに、本書全体のフレームワークをなす。これを著者の恣意的な概念操作とは言うことはできない。横光作品全体を貫通する「対象化/相対化」が作品構成上の方法論であり、<現実―世界>認識であり、そして<見る/見られる>関係性において立ち現れる近代的な自意識と他者の問題に終生こだわり続けた横光の文学的主題が、彼の文体における「視覚優位」という特性を踏まえて展開されていることを考えるならば、著者の論述はきわめて説得的である。

これは、たとえば吉田健一による「先駆者」としての横光評価――「パリに行つてそこの現実をそこの現実として受け取るのは、それが東京のとは違つている筈だという前提だけで出来ることではない。現実とは我々と外界の交渉によって成立するものである、その現実を知るのには、眼は外にではなくて、絶えず我々自身に向けられていなければならない。それ故にそれは自意識の問題であり、近代の特徴をなしているものが自意識であるのと同じく現実の観念は近代に属している。横光利一はヨオロッパに最初に現れた日本の最初の近代人だった。……(略)彼は外国に旅行した興奮を抑えるので緊張した意識にパリの現実を映し、それと日本の現実の差までを意識するという仕事をしたのであつて、このことが彼の外遊を一つの歴史的な事件にしている」――を具体的にテキストで跡づけ論証する試みとなっているのと同時に、それをさらに一歩推し進めて、横光の遺した文学作品の現在性を根拠づける重要な指摘であると思われる。つまり、著者のいう9.01の「震災後文学」と「戦後文学」の相同性は、3.11以後の「人災後」の時代状況との関わりのなかで、きわめてアクチュアルなテクストとして横光を読む可能性を示唆する。なぜなら、良くも悪くも、前時代のあらゆる文化的・政治的空間が崩壊していく時代における先端のモードの体現者――モダニストの成れの果ての一人が横光であったからだ。そして彼こそが、荷風のように江戸という「過去」に逃避することも、小林多喜二のように「未来」の国家に亡命することもなく、ひたすら「現在」にこだわり続け、野垂れ死にした敗残の日本「文学の神様」だったからだ。

 

 しかしながら、こうした本書における美点は、いわば諸刃の剣でもある。確かに今この時における鋭い問題提起という「朝日に輝いた銃剣の波頭は空中に虹を撒いた」が、一人の狂人を載せた膨大な作家研究の平原はやがて「黒い地平線を造つて潮のやうに没落へとあふれていつた」ように。それは研究者の「宿命」かもしれない。だが私は一般論としての時間の腐蝕だけをいうのではない。それは、テクスト読解における論理的可能性として、テクストに未発の潜在的能力の発見であると同時に、未発に終わるしかなかった不能性の証でもあるからだ。このことは、たとえば著者の魅力的ではあるがいささか牽強付会とも思える論理展開や問題提起の強さに比しての根拠の弱さにも見てとれる。たとえば第1章――「戦争体験を経た記憶は、無時間的なものとして固着し、歴史的因果関係の内には残像としてのみ存在する。その為に森川義信への呼びかけは抽象化された『M』への呼びかけとなる。断ち切られた過去が一瞬の切断面をとどめているとすれば、『活字の置き換え』ごっことして貶められたものの記憶もまた蘇ってくるのである。だとすれば『M』とはモダニズムの謂いと受け止めても差し支えないようにこの詩(※鮎川信夫の「死んだ男」――引用者註)は読めるはずである」とは、レトリック偏重で議論が進められているきらいがある。また、第8章――「このように二項対立をずらし続けるのが「梶もの」であり、『旅愁』を補完するものである。横光は「厨房日記」から「微笑」まで時代と向き合いながら書き続けた。その意味では相対化の運動としての作品は、どこかへ回帰し、落ち着くものでもなかったのである」という結論には、著者は戦時下に書かれた横光の作品(とりわけ「梶もの」)をいわば「救済」しようとするのに急なあまり、横光の作品傾向のもう一つの柱である上述の(3)「『共同の一線』を発見」しようとする「統一の原理/普遍性への志向」をあまりに低く見積もりすぎではないか、という疑念が生ずる。とりわけ、続く第9章における『旅愁』の主人公・矢代の〈病〉を「近代空間に対するオルタナティヴなものへの違和ではなく、むしろ近代国家によって保障された空間から排除されるエグザイルへの不安ではなかったか」という弱い疑問形を忍ばせながら展開される推論の根拠が、「ディアスポラのイメージが『国境』と関わって描きこまれたとき、国民国家ナショナリズムのみではなく、故郷を喪失しさまようエグザイルの観念が『国境』を越えた旅に重ねあわされる」というイメージ操作にしか求められないのは、上の疑問を増幅させる。そしてこのことは、著者が本書の冒頭で宣言した課題――「『旅愁』の再評価なくして、新感覚派時代からの読み直しは出来ない」――の困難さを逆説的に浮き上がらせる。

 

なぜ『旅愁』再評価なのか?ここでいう評価/批判が徹頭徹尾ネガティヴなものであったとしても、なぜ論の対象とならざるをえないのか?――この疑問は、結局のところ、横光という作家個人によるものというよりは、〈いま―この〉時代をいかに乗り越えるかというモダニティの自己言及性の課題に直結する。それは第1章で著者自らが断じたように、すでに出来上がった「見取り図の根拠と土壌を問う」ことにほかならない。そのとき、研究対象としての横光は、ある一つの時代を生きた個人という枠を離れて、〈われ―われ〉の現実をいかに「相対化」し、その彼方にあるべきはずのひとつの普遍性を志向することは可能か、という本書の問題提起を担う対象としての地位を確立するであろうし、読者もまたそれを自分自身の課題として選ぶことを迫られる。

 

横光利一だけは、いくらか意識的に、薔薇の花を、機械のようにうつくしい、と考えていたようにみえる」――かつて花田清輝は横光を評して、いくつかの留保をつけながらも、戦前期に彼が果たした文学活動の特異性を指摘した。この花田が駆使するアフォリズム風の、絢爛たるイメージの喚起力に到底及ばないが、あえて横光と、彼が生きた時代に、この国で花開いたモダニズムの行き着いた風景を思うとき、以前、博物館の一隅にひっそりと置かれていた、あるひとつの砂礫の塊が心に浮かぶ。

「砂漠の薔薇」。それは、いまは一面の乾燥した砂漠で採取される珍奇な石で、その多くがあたかも花弁がひろがった植物のように見えるためにそのように命名された。成分的にはこれは水に溶けたミネラルが結晶化したものであることから、かつてはそこに水があった証拠としても扱われる。――そう、水は確かにあったのだ。だがしかし、その水はなぜ、どのように枯れてしまったのか? この問いを掘り下げる者だけが、純情可憐な「性格悲劇」でも哀れな「時代の犠牲者」でもない、一人の自立した表現者としての横光の、その苦闘の跡を見出すことができる。それゆえ、本書を通じて読者は、この「読む」という行為それ自体の緊張を覚える。それを感じとることができないならば、この時代に、この国で、横光を「読む」ことはできないのだ。その限りにおいて、読者は、本書のモチーフが次なる展開を遂げること――横光の遺した作品を読みかえ、そして、その可能性を問うこと――への期待を、著者に投げ返す権利をもつ。その時を待つ。

(2017年3月、和泉書院、4800円+「消費」税)

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