「文学史を読みかえる」研究会

作品の共読を通じて、自由なディスカッションをおこなう研究会です。

3月の研究会報告と次回テキスト

三月、関西にて「文学史を読みかえる」研究会の例会が行われました。

今回のテキストはアウグスティヌス『告白』で、報告と討論の要旨は以下の通り。

 

例会では、アウグスティヌス『告白』をテキストに、哲学史をおさらいしながらアウグスティヌスおよびキリストの思想的意義について検討されました。

 

ポリスが崩壊して以降、世界が帝国化して行き、個人の無力感が強まるにつれて哲学は積極的な政治意識を失い、苦しみあえぐ民衆から乖離していく。そうした哲学の堕落を尻目に登場したイエス・キリストは、貧しい虐げられた民衆にこそ語りかけ、救いを説いた。弱い者は自分がしたくもないことをさせられてしまう。強い者が自分の手を汚すことなく「律法に反すること」「すべきでないこと」を弱い者に押し付け、強制させるからである。しかし本来、律法とは弱い者のためにある。掟のために人があるのではない。(弱い)人のために掟があるのだ。金持ちが天国に行くことは「駱駝が針の穴を通る」よりも難しいとイエスは言う。当時のローマ帝国において「金持ち」とは戦争で略奪した者のことであり、弱者から搾取し収奪することで「富む者」になったのである。イエスは断固として「貧しき者」の側に立つ。イエスの言葉はローマ帝国の現実と真っ向から対立する思想であった。

アウグスティヌスキリスト教が制度化され、ローマ帝国が滅亡していく時代を生きた。彼は若い時からこの世界の理不尽さと自分の醜悪さに苦悩し続けた、「真面目に悩んだ普通の男」である。勉強に打ち込んでも悩みは晴れず、酒や色に溺れ、物を盗む……。『告白』では現代の私たちにとっても身近に感じられるような普遍的な悩みや誰もが持ち得る体験が語られる。そしてこの「普通の男」はこの世界はおかしいと疑い、実直に考え抜いた。

ーーこの世界が間違っていると疑えるということは、「間違っていない」もの、すなわち「善」ないしは「正義」という基準がなければ疑うことすらできないはずである。その正義の価値観は全能であり普遍的な神に基づくものであるから、まさに神が人間に「疑う」という能力を与えてくれたのだ。だから、疑えるということ自体が神の証明であり、希望そのものであるーー。

アウグスティヌスの深い内省はついに自己を食い破り、普遍的な「正義」「善」へと向かう。その地平においてアウグスティヌスは人びとに語りかけたのであり、彼の思考は現実批判としての政治思想へと深化する。自己や世界と向き合うなかで普遍的な価値を見出し、それを現実や他者へ向けて説いたのだ。だからこそ、アウグスティヌスの言葉と論理は、いまだに読む者の胸を打つのである。

いうまでもなく、現在の私たちも帝国のなかに生きている。だとしたら、貧しく、差別され、虐げられた人びとにこそ届く言葉を模索すべきであり、この現実を穿つ「正義」ーーそれを「正義」と名指すべきかはともかくとしてもーーの価値こそが問題となるのではないか。


討論では、主に『告白』後半部分の時間論と、この著作における「語り」の宛先の複数性について議論が交わされた。

まずは、時間論についての議論だが、アウグスティヌスは時間を三つに区別する。「過去についての現在、現在についての現在、未来についての現在」(『告白』第11巻第21章)である。あるのはただ「現在」のみであり、過去と未来とは、次のように定義される。すなわち、過去についての現在とは「記憶」であり、未来についての現在とは「期待」である、と。

この区分を現代の私たちにひきつけて考えるならば、現在の政治(家)は、過去の「記憶」に民衆を縛りつけており、ひとびとから未来への「期待」を搾取しているのであって、生活者の「現在」を奪い続けていると言えるのではないか。

もう一つの論点は、『告白』の著者は誰に対して語りかけているのか、という問題についてであった。アウグスティヌスは三つの「語り」を駆使して『告白』を記述している。一つは神に対してであり、もう一つは自己内対話であり、最後の一つは聴取にむけての語りかけである。アウグスティヌスはこれらの語り口を意識的に使い分けており、自覚的に織り交ぜながら読者を引き込もうとしたのだろう。

また、報告者の報告は、哲学史の平板な歴史観に留まっており、哲学史なり文学史を「読みかえる」という観点が希薄であることも指摘された。

 

その後の懇親会では参加者の皆が、若い頃のアウグスティヌスのように大いに飲み、トマス・アクィナスやルターのように大いに喰らい、そしてソクラテスたちのように大いに語り合い、あっという間に夜は更けていきました。

 

 

【次回テキストについて】

次回テキストについてのお知らせです。例会の詳細は現会員に直接問い合わせください。

邱永漢「濁水渓」(1954)

陳舜臣「怒りの菩薩」(1962)

 

次回もよろしくお願いします。